母畑(ぼばた)温泉をはじめとして、いくつかの放射能泉が湧いており、
母畑・石川温泉郷を形成しています。
その中の一つに、少し変わった名前の猫啼(ねこなき)温泉があります。
石川町を南北に貫く国道118号を車で走っていると、こんな看板が出ていて、その雅なデザインと「猫啼」というどこか悲しげな名前に、思わず目が引きつけられてしまいます。筆者も初めてこの道を通ったとき、何の予備知識もなかったのですが、この不思議な看板に引き寄せられて、ついふらっと立ち寄ってしまいました。
猫啼温泉には日帰り入浴施設はなく、今出川沿いに二つの旅館が存在するのみですが、そのうち上の写真の目立つ看板を出しているのが「井筒屋」です。見ての通り、結構大きな建物の旅館です。
「猫啼」という地名の由来は、この地に生まれたという平安中期の女流歌人・和泉式部が、
京に上る際に愛猫「そめ」を置いていき、その猫が主人を慕って毎日啼き続けた、
という伝説によります。
猫は悲しみのあまり病み衰えていきましたが、近くの泉に浸かるうちに回復していき、
それを見た里人が泉の水を汲んで入浴したところ、優れた効能があることが分かり、
湯治場を設けたそうです。
伝説によると、和泉式部は、この地の豪族・安田兵衛国康の娘、
玉世姫(たまよひめ)として生まれ、町内には姫が産湯に浸ったという小和清水(こわしみず)、
国康が観音菩薩に祈願して式部を授かったという和泉式部堂などが残っています。
内田康夫の「十三の墓標」、舟橋聖一の「ある女の遠景」など、
小説の題材にもなっている伝説ですが、
全国各地の小野小町生誕伝説などと同じく、あくまで伝承の域を出ないものです。
しかし、高僧や武将ならばともかく、和泉式部が関わる温泉発見伝承というものは極めて珍しく、
同様に鷺や鶴ならばともかく、猫が温泉発見伝承に関わるというのも非常に珍しい事です。
おそらく、どちらも猫啼温泉をおいて他に例はないものと思います。
このような特殊な伝説が生まれる背景を知りたいところです。
井筒屋の内湯。和泉式部と猫の伝説を描いた色鮮やかなタイルが非常に印象的です。温泉や銭湯では滅多に見る事のない、百人一首の絵札のような雅やかなタイルです。ちなみに、和泉式部の歌は百人一首にもあります(「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな」という歌)。
こちらは露天風呂。今出川は建物の反対側なので、川を眺めながら入浴、という訳には行きませんが、庭木や植え込み、背後の山の森の緑を鑑賞しながら浸かる事ができます。
なお、猫啼温泉の泉質は単純弱放射能泉で、無色・無味無臭のため目立った入浴感はありませんが、
古くから痔疾によく効くと言われています。
和泉式部の愛猫「そめ」も痔を治したという伝説が浴場内に書かれていました。
猫も痔になるものなのでしょうか。まあ、あくまで伝説であって、
そもそも猫は水が嫌いなので泉に浸かるということも考えにくい事ですが。
もっとも、稀に水が好きな猫もいるので、事実だとしたら、
泉がちょぼちょぼと湧くぬかるみのようなところに座って、尻だけ浸したのでしょうか。
井筒屋の敷地内には「櫛上げの石」があります。これは若かりし頃の和泉式部が、ここの泉に櫛を浸して髪をとき、その際に櫛を置いた石なのだそうです。和泉式部伝説を伝えるこうした遺物が、実際に旅館の敷地内にあるのも面白いところです。
ところで、ここで泉というと、すぐそばの猫啼温泉以外には考えにくく、
式部がここを訪れる際に愛猫を伴っていたために、式部上京後も猫が慕って泉に来た、
という事になるのでしょう。切ない話ではありますが、
そうなると泉は和泉式部の上京前から知られていたという事になり、辻褄が合いません。
泉は知られていたが、効能は知られていなかった、という事もないでしょう。
わざわざ貴人が髪をときに来るのですから。
しかし、伝説とはそういうものです。様々なパターンがあって、そのうちには矛盾する内容を持つ場合もありますし、事実そのままを伝えている訳ではありません。しかし、何かしら伝説が生まれる「背景」となる事実はあったりします。櫛上げの石も元来は古代の祭祀跡なのかもしれません。古代にはこうした巨石が神聖視されて祭祀対象であった事はよく知られています。猫啼温泉から徒歩で20分程の石都々古和気(いわつつこわけ)神社には、古代に神聖視された巨石が建ち並んでいます。石都々古和気神社は大変由緒ある神社であり、陸奥国一宮でもあります。櫛上げの石も石都々古和気神社と関連した聖域だったのかもしれません。
またこうした聖域には「霊泉」と呼ばれる神聖視される泉がつきものです。
寺社にある泉などがそうですが、古くから「病を癒す」と言われた温泉も皆「霊泉」と呼ばれており、
猫啼温泉も和泉式部の時代以前の太古から崇拝されていた可能性もあります。
櫛上げ石は「霊泉」のランドマークとして崇められていたのかもしれません。
和泉式部が猫啼温泉の他に、小和清水など別の「霊泉」と関係しているのも気になります。
また、冒頭に書いたように、町内には放射能泉がいくつかあり、
どれも平安時代に開湯されたという伝説を持つ、古くから知られたものです。
この地域一帯は、「霊泉」の湧く場所として、周囲の信仰集めた場所だったのではないでしょうか。
ところで、水の神は世界中で幅広く女神として表現されていますが(有名なところでは弁財天など)、
当地の和泉式部伝説は、太古から周囲の信仰集めた水の女神がベースにあるような気もします。
駄洒落ではありませんが、「泉」と「和泉」が全く同音で、一文字足しただけというのも、
無関係とは言えないかもしれません(和泉式部自身の名前の由来とは無関係ですが)。
当地の古い水の女神の信仰が伝説化される過程で、地元の人々により、
「いずみ」の名を持つ著名な女性に集約されていった可能性もあるでしょう。
もちろん、これらは全て、さしたる根拠もない筆者の推測に過ぎませんが、
何にせよロマンをかき立てられる伝説です。
こちらは井筒屋の食事です。和泉式部の活躍した平安時代を、若干意識した(と思われる)食器を使っています。筆者は二回目訪問時に宿泊もしてみました。井筒屋は一番安い部屋であれば一泊二食付きで7350円とリーズナブルな宿です。特に有名な観光地が近くにある訳ではありませんが、その分混雑もしておらず、ゆっくり休むにはいい温泉です。
館内にある和泉式部と猫の人形です。和泉式部伝説は旅館の「売り」でもあるので、旅館内のそこかしこにそれにまつわる絵画等があります。
旅館ではオリジナルのこんなお土産も売られていました。宿泊したのは4年前のことなのでどんな銘菓だったかは忘れてしまいましたが、なかなか素敵な包装紙です。
こちらは館内にあった貴乃花、若乃花の、貴花田、若花田時代の手形です。近くで興行でもあって、入浴でもしたのでしょうか。
上で書いたように、近くに有名な観光地もなく、
取り立てて目立った入浴感のない温泉ですが(ただし放射能泉としては東北屈指)、
静かで低料金で、小説の題材にもなるロマンのかき立てられる宿なので、
文筆などに打ち込むには、インスピレーションが湧いてきていいかと思います。
昔、筆者もWEBサイトの文章をまとまって作るために二泊したことがあります(笑)
猫啼温泉(井筒屋)
▼所在地:福島県石川郡石川町猫啼
▼泉質:単純弱放射能冷鉱泉(低張性-中性-冷鉱泉)
▼放射線量:12.35マッヘ
▼ph:7.1
▼泉温:8℃
▼湧出量:6リットル/分
▼温泉の利用形態:加温、循環式
▼日帰り営業時間:9:00~16:00
▼休業日:(おそらく)無休
▼日帰り入浴料:650円(別料金で個室、昼食付日帰り入浴あり)
▼問い合わせ先:式部のやかた 井筒屋 0247-26-1131 http://www.itsutsuya.co.jp/
猫啼温泉の地図はこちら。
福島空港から車で30分、JR水郡線・磐城石川駅から徒歩10分と、
割とマイナーな場所にしては交通の便もなかなかです。
大きな地図で見る
コメント